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彼はこうした気分

のうちに一種の淋し味さえ感じた。
彼の身体には新らしく後に見捨てた遠い国の臭がまだ付着していた。
彼はそれを忌んだ。

一日も早くその臭を振い落さなければならないと思った。
そうしてその臭のうちに潜んでいる彼の誇りと満足にはかえって気が付かなかった。
彼はこうした気分を有った人にありがちな落付のない態度で、
千駄木から追分へ出る通りを日に二返ずつ規則のように往来した。

ある日小雨が降った。その時彼は外套も雨具も着けずに、ただ傘を差しただけで、
何時もの通りを本郷の方へ例刻に歩いて行った。

すると車屋の少しさきで思い懸けない人にはたりと出会った。
その人は根津権現の裏門の坂を上って、彼と反対に北へ向いて歩いて来たものと見えて、
健三が行手を何気なく眺めた時、十間位先から既に彼の視線に入ったのである。
そうして思わず彼の眼をわきへ外させたのである。